身体の場所

 

物理学・学生   湯川の丸

 

 Physical:【形】1.物質の、物質的な、自然の、天然の
         2.身体の、肉体の
         3.物理学の
         4.自然の法則による、自然科学の

 

 1.Physical(身体)

 身体と物質が一緒の言葉であるとはどういうことか。それは私を精神と身体に分離できると信じるからである。しびれた足、無意識に動く心臓、死体。我々は物質としての身体を知らないわけではない。例え思いのままに動く手だって、自分らしい表情だって、これこれのタンパク質がこれこれの電気信号によってエネルギーが増えて、云々、と説明が付けられる。そこに物質に対する扱いと違った所はない。身体は観察対象である。自分から切り離すことができる。つまり物質と同じである。だからphysicalは身体と物質の両方を指し示す言葉としてあるのだと思います。 

 身体と物質が一緒の言葉であるとはどういうことか。もう一度考えてみる。さっきは身体を対象に遠ざけてしまった。それならば次に考えるのはこうである。目の前のコップは実は私の身体ではないのか。窓の外に見える木、クレーン車、あれも私の身体なのかもしれない。そしたら宇宙全体が私であることになる。生物でも無生物でも、この世界は秩序だって存在する。一つの細胞が秩序を断ち切り個性を発揮すればガン細胞となり全体系は死ぬ。太陽と地球の距離は生物の存在にとって絶妙である。ならば全体が一つのものであると考えないとこの秩序が説明できない。私と対象物、観測者と物質という分離など不可能である。私とコップを別物として扱うのはあくまで人間の感覚であり、それ以上に正しい保障は無い。科学者は感覚が間違うことを歴史から良く知っている。真実は「コップも私」である。だからphysicalは両方を指し示す。

2.Physical(物理)
 物理学でphysicalという言葉はどのような使われ方をしているか。2つある。
 ①「物理学」(そのまま。)
 ②「観測可能な量」(これは用語、つまりきちっと定義される。)

 まずは②について。自然科学だから観測が基礎にあるのは当然である。わざわざ観測可能性を用語にする必要があるのか。理由は観測不可能な量unphysicalが理論に登場するからである。Unphysicalとは観測にかからないくせに、realityを持つもののことである。ここ一世紀近く、見つかっていない粒子を仮定してきた方に軍配が上がってきた。小林-益川理論のノーベル賞もその例である。だから今の物理学者はunphysicalをあまり怖がらない。

 さて、観測可能であるということをもう少し掘り下げるとそれは測定機器と相互作用するということになる。②の意味を理解するために、例えば“空間”というものがphysicalかどうか考えてみよう。19世紀以前空間はunphysicalであった。物体が力を受けてどのように運動するか、静止している滑車にはどのような力が働いているか、このような問題を解くのが物理学(力学)であった。空間は物に“位置”を与える便宜でしかない。物と物の間には何があるのか。何もないということになる。ところが19世紀に電気と磁気の理論が完成すると空間はphysicalになった。物と物の間に“場”という存在が導入される。光というものはこの場が振動しながら伝播していくものなのである。我々は光と相互作用できる。我々は空間に対して影響を与えられるし、また空間から影響を受けるのである。この相互の影響が観測であり、physicalの意味なのである。

 次に①について。物理学の基本姿勢は実験、観測で得られた数値というのは"対象物の"物理量であるとする。即ち観測者とは独立に存在する客観的実在であると考える。もう明らかであるが①と②は矛盾している。物理学者はどう弁解するのか。①は譲らない。②を①へ近づける。観測装置の影響は対象物の物理量を微量に変えるが、それは無視できるほど小さいのだと。観測装置の技術を向上させることでどこまでも小さくできる。

どうもこれはそれ程悪くもないようで、実際に相互作用0の理論値と相互作用が存在しているはずの実験値が良い精度で一致する。どうも我々との相互作用は誤差の範囲内のようである。しかし何か大事なものを見落としているのかもしれない。観測の問題は物理学者に好かれないので放置されがちである。

 

3.Physical(物理と身体)

 相互作用といった時、そこには既に異なる個と個が存在することが仮定されている。そもそも“個”と認識するということは、そのものの外界からの“独立性”を表している。にも関わらず他との関係が無視できないために、それを相互作用という。相互作用を見ることと個を認めることは同時である。今個と思っていたものがもっと小さないくつかの個からできていると知った瞬間に小さな個の間の相互作用が現れる。小さな個を知らなかった時は大きな個の相互作用しかなかった。小さな個の相互作用の効果は大きな個が存在しているという仮定の中に含まれていたのである。我々は無意識に世界からたくさんの個を切り出して見る癖がある。世界を個と相互作用に分離するのだ。すると個だけで物事を考えることができる。物理ではこれを自由状態という。世界に電子1個だけとか、世界には物質が無くて空間だけ存在するとか、そういう状況を想像できてしまうのだ。

 さて宇宙全体が私であると言及したことを思い出そう。個というものを世界から切り出さない。すると物理はどうなるか。「繰り込み」という考え方がある。それはこんなものである。電子が走っていると実は光が電子にまとわり付いて相互作用をしている。しかしその光の効果を全部電子の質量という電子の特性に繰り込んでしまって、あたかも電子が一人で自由に走っていると記述し直す。相互作用込みの質量こそが観測される電子の本当の質量であると言うのである。なんだか騙された気分になるがこれを逆に言えば、始めの段階で電子と光子という個の切り出し方が良くなかったのだと言っていることになる。初めに電子の身体だと思っていたのは実は電子の上半身だけで電子の下半身を光子と呼んでしまっていたために不要な相互作用を考慮せねばならなかったと。一体どこが本当の身体なのか。「繰り込み」という考え方はやはり個を設定するところから始まるので完全に全体を全体として扱うとは言い難いが、物理学では個の切り出しに可変性を認めているのだ。この繰り込みという考え方は単なる見方の違いでは片付けられない。実はこの操作をしないと電子の質量は∞になってしまうのだ。逆に言えば我々が電子と呼ぶものが、個として不満足な切り出し方をされているのかもしれない。

 もう一つ面白い話がある。宇宙には無数の銀河が存在している。その銀河はどのように宇宙の中で分布しているのだろうか。一様均一だろうか。答えは否。コップに洗剤と水を入れてストローで息を吹き込んだ所を想像しよう。ぶくぶくと泡が立ち上がる。この泡の表面に銀河が散りばめられていて、泡の中には銀河は存在しない。宇宙の構造はこのような泡状構造になっていることが分かってきている。そしてこの泡状構造、スケールを変えてもまた泡状構造が見えるのである。自己相似系(フラクタル)という。自己相似とは部分の形が全体を見渡したときにもまた再現されているというものである。全体と思っていたのに、さらに大きな視点で見るとまた同じ形が再現される。海岸線や巻貝の渦巻き、カリフラワー等例はたくさんある。自己相似は特徴的なスケールを持たないがために、個をどこで切り取ればいいのか不明である。この不思議な宇宙の構造を描き出した正体が重力である。宇宙は重力が支配する領域であり、宇宙の大規模構造は重力の構造と考えられる。重力は自己相似形を作る一方で、その構造の構成要素である、天体、銀河といった個を作ることもできる。天体や銀河は泡状構造をしていない。重力は個から、個のない構造を生み出す。

 先の「繰り込み」を重力について計算してみると、実は繰り込み不可能なことが分かる。∞があまりにも激しくて手に負えないのだ。個の切り出し方を変えても重力に対しては打つ手がないのである。宇宙の構造という巨大スケールから電子等を扱う超ミクロなスケールの話も、このように“個の切り出し”という観点で見れば同じ問題のように考えられないだろうか。重力の自己相似性にとって宇宙も電子も同じに見えていたりするかもしれない。重力は現在のphysicsに∞という困難をつきつけている。何がいけないのか。理由を見つけたときそれがphysicalな考え方の根本を揺さぶるのかもしれない。

 

 kappacoolazy

 湯川の丸しゃんは現在学生で物理学の研究をされているんだったにね。具体的な研究としてはどういう研究を?

 

 湯川の丸

 我々の世界には物質が存在しそれらが相互作用をして作られていると考えています。相互作用の仕方には4つ知られていて、そのうちの一つが重力です。現在、物理学では重力以外の3つの力を1つの原理から説明できますが、重力だけはその原理が適用できません。重力の理論は100年前にアインシュタインが作ってから変更されていないのです。アインシュタイン理論では物質と重力はイコールで結ばれる関係にありますので、方程式の片方が新理論で、もう片方が旧式になってしまいます。重力を新型にしない限り理論的整合性がとれていないことになります。私の研究は、「重力は統一できるのか」「もし統一できるのなら重力の新理論を見つけること」ということをテーマにしています。

 

 kappacoolazy

 アインシュタインしぇんしぇいと向きあうんだにか?楽しそうだにねぇ。
コップも「私」・・・僕も賛成だにぉ、、、しかし、これを広げて行くと全てが「私」となってしまう。そして、そこまでいくともう「私」なんてどうでもよくて、マクロに見ていってもミクロに見ていっても、滅「私」になってしまう。。。 つまり「観察者」がいなくなるのかな・・・笑。

 

 湯川の丸

 はい、居なくなると思います。他者あっての「私」ですから全てが私になったとたんに「私」は消滅しますね。。。もし「宇宙=私」まで拡張することになると、宇宙の外の目からの宇宙の記述という形にならざるを得ないと思います。物理学というものが、観測し、説明するという前提にたっているからです。しかし、宇宙の外の存在は認めません。形式だけです。

 

 kappacoolazy

 Unphysicalのrealityは興味深いだにね。妖怪なんてその最たるものだよね。河童とか(笑)

 

 湯川の丸

 kappacoolazyさんは河童に会われましたか(笑)私の場合はマンモスに出会いました。人は夢だと言いますけど、、、私は、「見た」と答えるしかありません。マンモスの存在は結局どっちでもいいのですが、夢と現実が判断できなかったことが重要なことです。私のrealをもう一回洗い直さなければいけない。しかしたぶんまた間違いなのでしょう。physicalということは直接観測されるいわゆる事実という意味での真実を指し、何か分からないけれど真実であると思ってしまう(騙されてしまう?)もの、それは例え観測という目に見えるものでなくても、それをrealityと呼んでいます。私の場合、マンモスはphysicalではありませんでしたが、realだったということです。

 kappacoolazy
 論理的思考には限界があるように思えてならないんだけど、物理学では「秩序」ありきなの? つまり、すべては論理的に説明出来るはずだと。。。

 

 

湯川の丸

 全てを論理的に説明できるのか、と言った時の「全て」が本当に世界全体のあらゆることという意味なら不可能だと思います。前提を置いてしか説明ができないというのは物理では変わりませんので、本当に全てを説明することはできないと思います。全てを扱うと面白くない。何が原因で何が結果かという抽出がむしろ説明だと見なされると思います。


 kappacoolazy

 「重力は現在のphysicsに∞という困難をつきつけている。何がいけないのか。理由を見つけたときそれがphysicalな考え方の根本を揺さぶるのかもしれない。」この場合、∞というのは物理学における論理的思考の前提として設定されているものではないんだにか?

 

 湯川の丸

 色んな無限があると感じます。例えば空間が密に連続に詰まっているという無限は感覚的に受け入れられますが、逆に粒子が無限に小さい(つまり点)というのは方便であって何らかの改善をしていけるのではないかと感じます。点や無限の実在を観測で出すことが不可能なので論理的思考のための前提にすぎないと言えばそれまでかもしれませんが、観測を説明する理論において「点性」が重要な役割を演じるならば「点」なるものが「在る」と言えると思います。事実、物理で「点」は非常に重要です。〆

 

 

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