ミミクリー(模倣)

 

瀧元 智恵(主婦・比較文化学)

 
 子育ては発見の毎日とよく言われているように、子供の成長過程には人間の本質が見え隠れしていて「なるほど!」とひざを叩きたくなることが多いものです。これがいつどのような状況のできごとだったのかはすでに忘却の彼方であるが、長男を連れた病院で「赤ちゃんは、元気だったらすぐに遊びだすから」という看護士の何気ない発言に目から鱗の衝撃を受けたことを記憶している。幼児は寝るか食べる(乳幼児期はおっぱいを飲む)か泣くか遊ぶかのいずれかである。そう、子供は遊びから逃れられないのだ。
 いっけん幼児は無為な時間をまったりと過ごしているようであるが、けっしてそんなことはない。オムツを替える一瞬たりともじっとしていることはないので、世話をする大人は子供の関心を引いて動きを止めさせるために、笑わせたり、おもちゃを握らせたり、マッサージしたりとあやしながらオムツを取り替えるテクニックを身につけていくことになる。
 手足を動かしてみたり、何でも舐めてみたり、小さなものをつまんだりと、幼児は誰に教わるわけでもなく、遊びながら成長過程を歩んでいく。本能のおもむくままとでも言おうか、遺伝子に組み込まれているとでも言うべきか、幼児期の遊びは極めて生物的適合性に役立つ意味のある遊びのように感じられる。
 モンテッソーリの言葉を借りれば、幼児の成長過程で行われる遊びはすべて意味のある「神様からの宿題」なのである。ゆえにモンテッソーリ教育では幼児の遊びを「お仕事」と呼ぶ。
 ところが、カイヨワが『遊びと人間』の序論で記しているように、遊びという言葉はつねに休息あるいは楽しみの雰囲気をともない、現実生活に対しては結実をもたらさない活動を想起させる。遊びは現実生活における真面目と正反対であり、したがって軽佻と見なされる。労働とも反対であり、活用された時間ではなく無駄な時間と見なされる。遊びの根源的な無償性こそ、最も人の不信感を買うところの性格である。
 人々は、子供の遊びは極めて自然な行為として好意的にまた積極的に促し、子供は遊びを通して身体精神共に成長し、社会性を身につけるためにも欠かせないものと認識していたはずなのにいつの間にか「遊んでばかりいて・・・」と嫌悪するようになるのである。
 「 遊びとは何か 」「 なぜ人は遊ぶのか 」といった命題に果敢に取り組んだホイジンガとカイヨワの名著には頭の下がる思いであるが、それを導き出す事例を事細かに挙げれば挙げるほどきりがなく、また不充分な感を与えるというパラドックスに陥っている。山口昌男先生がいうように( 「 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』をよむ 」の講義録は2009年平凡社新書の『学問の春』に収録されました )、文化の全体像を描き出そうとする学問は、19世紀から20世紀前半に興ったが、20世紀後半より、学問が細分化してしまった。
 資本主義下では個人志向に陥るとマルクスが心配したとおり、現在の日本では、学問だけでなく文学・映画にいたるまでひっくるめて非常に内向的であり、広い世界観を描けなくなっている。私たちは今や「遊びとは何か」に取り組んだホイジンガと同じ学問の土俵すら失ってしまった。
 この度、ミミクリー(模倣)をイメージしてというこの原稿の依頼を井上邦子さんから受けたとき、4歳と11ヶ月の赤子の育児中の私は、遊びと模倣に関する我が子の面白いエピソードには事欠かなかったので、子育ての体験を交えて何かと漠然と思っていたのですが、ホイジンガとカイヨワをぺらぺらと読み返すうち、個人的な体験による私見が書き出せなくなってしまった。我が子の事例など、ホイジンガやカイヨワの挙げたたった一つの事例にも及ばない。
 「遊び?」「模倣は遊び?」「遊びとは何?」遊んでいる子供たちを前に「遊び」の命題が頭から離れない日々が続いた。4歳児の「遊びたい!」の発言が追い打ちをかける。いったい何をしたいの!遊んでるじゃない!何もすべき事のない自由な時間に、そう遊んでいる時間に我が子は「遊びたい」と要求する。どうやら無為に過ごす自由は遊びではないようだ。あきらかに子供は「遊び」という型をイメージしている。試しに「遊びって何?」と聞いてみた。4歳児曰く「すごろくとかゲームとか楽しいこと」「楽しいことねぇ」。そういえばホイジンガは、遊びの「おもしろさ」とは何かと問うた上で、遊びの迫力は生物学的分析をもってしては決して解明されない。ところが実はこの迫力の中に、狂気にかり立てる力の中に、遊びの本質が、つまり遊びを遊びたらしめるものが、潜んでいると述べている。
 子供の模倣遊び(ごっこ遊び)には謎が多い。まず、模倣遊びらしきものをはじめたばかりの11ヶ月児。彼が初めてつくってくれたおままごとのスープは、ゴリラのスープ。これは私と4歳児の兄には非常にうけ、おおいに楽しませてもらったが、とうの本人はおおまじめ。色鉛筆入れに一本ずつ鉛筆を入れたり出したりする遊びも口をとがらせて集中して繰り返す。
 長男は、男の子の多分にもれずヒーロー好きで、ウルトラマンを愛し、変身ごっこ、怪獣ごっこをして遊ぶ。しかし、彼の模倣するヒーローはテレビで観た架空の世界であり、現実世界の模倣ではない。怪獣ごっこでは果敢に怪獣を倒せるのに、本当はとても恐がりで、怪獣の登場しないスーパーヒーローショウも怖くて近づけない。テレビの中の超現実のヒーローが目の前に表れることがそれだけで恐怖なのかもしれない。生まれながらの模倣意欲をこえ、現実世界で満たされない思いを仮想世界で満たしているのだろうか?女の子のお姫様ごっこはこの気が多いと自分の体験上感じている。いずれにしても、子供はまるでマニュアルがあるかのごとく、ままごとと男児はヒーローごっこ、女児は赤ちゃんごっこ(赤ちゃんの世話)とお姫様ごっこを経ていく。
 我が子の遊びを観ている限り、まさに遊びは神様からの宿題のごとく成長の過程に降ってわいてくる。そして宿題に取り憑かれた子供たちはその宿題を嬉々として、または真剣に取り組むのである。真剣というのは苦ではない、面白いからこそ、惹きつけられるからこそ真剣になれるのである。幼児期の遊びは生理的に組み込まれた衝動と快感と関連があるようだ。
 大人になると人は、生理的な関わりの深いものを避ける傾向がある。理性ある紳士淑女のたしなみとしてその傾向は強くでる。例えば日本語の「 厠 」や「 便所 」を表現するのに「お手洗い」「 化粧室 」と遠回しに表現したり、もしくは「 トイレ 」という外国語に置き換える。韓国語においても「 ピョンソ ( 便所 )」という表現は人前では避けられ男女共に「 ファジャンシル ( 化粧室 )」と言うのが一般的であるし、ご存じの通り英語圏では「lavatory」を遠回しに「 lavvy 」、「 toilet 」を「 wash room 」「 bathroom 」「 powder room 」と表現する。「 食べる 」「 死ぬ 」といった生理的言語は尊敬語にする場合「召し上がる」 「亡くなる」というように原型をとどめないのも日本語・韓国語に共通している。
 遊びは本能的に仕組まれているからこそ、理性的な人として育てられる過程においてしだいに忌み避けられる事として扱いが変わっていくのではないか?ホイジンガが言及しているように本能的な遊びから文化が発展していくように、人は幼児期の本能の遊びから徐々に文化的な遊びに幅を広げていくのでしょう。この見解は、ホイジンガやカイヨワのようなフィロロジーの基礎もなく、文化の構造を明らかにしていくという俯瞰的な視野と見識をもたない私がちょっとだけ模倣しながら、多くは母親的なカンで導きだした「遊び」です。

ミミクリー

 

 

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